愛媛県歴史文化博物館 学芸員ブログ『研究室から』
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2012.10.26 Friday,
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南予の中世城跡探訪28 ―日振島―
 宇和海に浮かぶ日振島は、平安時代の藤原純友のゆかりの地として知られ、伝承地も残されています。島内には、城砦(じょうさい)の跡と伝わる場所もいくつかあり、明海(あこ)の港を見下ろすように「城ケ森」があり、現在は「純友公園」となって石碑も建っています。さらに奥には、「エジガモリ」と呼ばれる純友時代に見張場だったと言われる場所もあります。喜路(きろ)の港のそばには「寺山」と呼ばれる場所があり、これも見張場だったと言われます。これらが本当に純友時代からの城砦跡かどうかははっきりしませんが、日振島は純友以降も長い歴史を積み重ねたことは言うまでもなく、戦国時代になってもその立地から重要視されたと考えられ、城砦についてもおそらく様々に利用され続け、役割を担い続けたものと推察されます。 


  城ケ森(現在、純友公園)


  エジガモリ

 日振島は、伊予とはいいながら宇和海の中心に位置し、伊予と豊後の中間にあります。また、西南四国から瀬戸内海へ抜ける佐多岬豊後水道へ向かう経路上にあり、土佐西南部と豊後中心部(府内周辺)とを結ぶ中間にも位置しており、宇和海上で九四間を往来する際、要の場所と言えます。


  九州(大分)が遠望できる

 天正4(1576)年には、四国本土の法華津湾を本拠とする法華津氏が、日振島の者達へ海上交通・流通などに関する掟を出しますが、これは宇和海の水運を担う領主が日振島を影響下に置き、宇和海の交通・流通に関与していたことを示します。また、豊後からの襲撃を受けることもあり、天正7(1579)年には豊後大友氏の水軍若林氏が来襲しました。天正14(1586)年の九州平定では、戸次川合戦で島津勢に敗れた長宗我部元親がひとまず退却したのが日振島だと言われ、隣の戸島は長宗我部氏に土佐を追われ豊後大友氏を頼った一条兼定が晩年滞在し、亡くなった島と言われています。
 こうした、宇和海交通の交差点ともいえる日振島、そこでは海上交通・流通の統制拠点、あるいは係争時の防衛拠点として城砦が必要とされたはずです。それこそが、港を見下ろすように存在し、今では純友伝承地とされている城砦たちだったに違いないでしょう。
2009.03.13 Friday,08:44
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南予の中世城跡探訪27 ―水上城跡―
 道後平野から伊予灘沿いに伸びる夕焼け小焼けライン(国道378号)は、広がる海を眺めながら走れる道路として、また美しい夕焼けの見られるスポットとして休日には多くのドライバーやライダーで賑わいます。佐田岬半島の付け根に当たる瞽女峠にトンネルが抜けて以来、メロディーラインに直結するようになったため、さらに便利になっています。

 上灘・下灘・長浜を抜けてさらにしばらく行くと、点在する小さな入り江の集落の一つに出海(いずみ)地区が現れます。その西端で海に突き出るように伸びた尾根先に、水上城跡はあります。この地域は、出海氏(本名兵藤)が支配する所で、その本拠がこの水上城でした。


  水上城跡 左側の麓が出海地区

 南予は平野の少ない山がちな地形のため、今でこそ道路や鉄道で便利になっていますが、近代以前は陸路より海路が主要な交通手段であったはずです。道後平野から喜多郡や宇和郡へ向かうには、まず伊予灘沿岸を下っていくことになり、途中で点在する集落に寄港することになります。そして、佐田岬の先には九州もあります。

 戦国時代末期、宇和の西園寺氏の一族で、現在の宇和島市中心地域を支配した来村西園寺宣久は、伊勢神宮参拝の帰り道、この出海を経由しています。芸予諸島を過ぎた一行は、堀江(松山市)などを経由しながら出海に着津し、宇和西園寺氏のもとに立ち寄り、帰還しています。ここが一行の上陸地点であったと推察できます。

 伊予灘沿岸の海上交通や、麓の寄港地を管理する役割を担った城の一つといえるでしょう。
2009.03.06 Friday,09:41
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南予の中世城跡探訪26 ―延尾城跡―
 肱川下流の中ほどにある大洲市八多喜(はたき)町は、支流清永川の谷間の入口に位置し、江戸時代は肱川河岸の在郷町として賑わったといいます。そこから谷の奥へ向かうこと1kmと満たない尾根上に延尾城(のぶのおじょう、信尾城とも書く)があります。以前に紹介した祖母井城と八多喜町の谷を挟んで向い合うように位置します。中世の史料に延尾氏の存在が見えるので、ここを本拠とした領主と思われます。


  延尾城跡

 この城も、眼前にある肱川の水上交通を視野に入れた立地と推察されますが、何よりこの城が歴史上脚光を浴びるのは、城下で起こった合戦によってとなります。天正12(1584)年、土佐長宗我部氏は周辺政治情勢の変化に伴い、南予方面への軍事侵攻を開始し、破竹の勢いで一気に宇和郡を征圧し、喜多郡も北部沿岸部を残してほぼ征圧達成目前にまでいたりました。

 それに対し、迎え撃ったのは河野氏・毛利氏の連合勢力で、毛利氏から桂広信・広繁らが加勢として派遣され、反撃を開始します。しかし、肱川下流域の城が次々と長宗我部勢によって落城する中で、十一月初頭頃に延尾城も陥落することとなります。増援が必要と判断した毛利氏は、翌13(1585)年になってさらに平賀元相・木梨元恒らを派遣します。

 そして2月4日、延尾城の長宗我部氏勢力のために大津衆が来援したことで、平賀氏との間で城下において合戦が起こりました。毛利氏側は、防戦に勝利したと認識しているので、来援を返り討ちにしたのは確かでしょうが、延尾城を奪還できたかどうかははっきりしません。いずれにしても、延尾城はこの頃しばらく長宗我部氏の最前線拠点とされ、河野・毛利勢力との間で攻防が展開されるという、軍事的境界に位置する城でした。
2009.02.27 Friday,11:59
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南予の中世城跡探訪25 ―水沼城跡―
 肱川下流の中ほど、大洲市街から長浜に向かう途中、八多喜(はたき)町に入る手前でまるで門を抜けるかのように尾根の切通しを通って八多喜町に入りますが、その肱川側の尾根上に水沼城はあります。八多喜町側からは全貌をよく眺めることができます。この地域の戦国時代の史料に水沼氏という領主が見られますが、ここを本拠とした領主と思われます。


  水沼城跡(中央)
   左の尾根上に祖母井城、右の谷間に肱川が流れ、
   奥は大洲盆地に通じる

 祖母井城から連なる尾根の先端で、直線的に河口に通じる肱川下流の流路に張り出し、あたかも流路に立ちはだかるようです。下流ではここが最も流路の狭くなる、くびれた部分となっています。また、迫り出した分、川の上流・下流ともに非常に眺望が効く立地となっています。


  水沼城跡(右)の麓を流れる肱川
   左右の尾根で流路がくびれ、城山が流れを遮る

 この最も狭くなった肱川に面して、水沼城の先端から続く微高地に岩津の集落があります。川筋には尾根先から続く岩場を見ることもできますが、その名の通りここには岩場に出来た津が存在していたのでしょう。

 また、尾根先端部には旧郷社の祇園神社が鎮座します。江戸時代の大洲藩主は、参勤交代の際に当社に参拝してから出帆したといいます。当社は肱川を正面にしており、川からの参拝を前提に祀られている様子もよくうかがえます。


  祇園神社
   水沼城跡の突端、肱川に面して鎮座する。
   手前は現在の肱川堤防。

 肱川下流域の水運管理にとって、重要な役割を果たした城であったといえるでしょう。
2009.02.19 Thursday,09:47
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南予の中世城跡探訪24 ―祖母井城跡―
 肱川は、大洲盆地から長浜まで狭い谷間をほぼ直進して河口へいたります。そのほぼ中ほど、ちょうど大洲市八多喜(はたき)町を少し入った尾根上に、祖母井(うばがい)城はあります。戦国時代の史料に祖母井氏の名が見られるので、ここを本拠とした領主と思われます。珍しい名前ですが、栃木県の宇都宮市の東隣の芳賀町には「祖母井」の地名があり、大津(大洲市)宇都宮氏の本家で有力御家人であった下野宇都宮氏の所在地の至近です。鎌倉時代に宇都宮氏が伊予守護職を獲得し、喜多郡地頭職をも獲得して支配が始まるに伴い移住してきたと見てよいでしょう。


  祖母井城跡(下流側)
   麓に八多喜の集落、前面に低地帯が広がる

 この城の尾根は、肱川下流で唯一流路に張り出しており、上流・下流ともに眺望が効きます。上流は、麓に春賀の低地(水田地帯)が広がり、先には大洲盆地が見えます。下流は、麓に八多喜の町並みとやはり低地が開けています。八多喜町側に階段状の郭が配され、春賀側が最も高い本郭になっており、そこから両方を見渡すことができます。


  祖母井城跡(上流側)
   前面に春賀の低地帯が開ける

 大津盆地から河口まではほとんど標高差がなく、そのため肱川は現在でもよく川の氾濫が起こり、低地が水没します。また、ちょうどこの地域の手前の米津付近まで潮位の影響を受ける汽水域となっていて、江戸時代の大洲藩では、加屋村須合田に浜番所を置き、河口の長浜に継ぐ港町となっていたそうです。麓の八多喜町も、河岸の在郷町として発達し、現在もその面影を残しています。おそらく中世のこの付近では、低湿地や淀みなどが広がり、河口のV字谷とは違って船溜りなどを造りやすい景観だったと推測できます。


  八多喜町に残る旧家

 米津には瀧之城があり、そこは宇都宮氏の重臣津々喜谷(つづきや)氏が本拠としましたが、栃木県芳賀町の東隣の市貝町には「続谷」の地名があり、やはり宇都宮氏の喜多郡支配に伴って土着した下野(栃木県)の領主の一族と思われます。こうした下野以来の領主が土着していることからも、宇都宮氏の支配にとってこの地域が重視されていた様子が垣間見えます。

 四国平定後に豊臣政権下で行われた城郭整理では、伊予を拝領した小早川隆景が、「祖母谷、瀧之城、下須戒、これも一所にまとめたい」と言っています。河口にある下須戒と合わせ、この3城がすべて肱川下流の城として、水上交通を押さえる拠点となっていたと推察でき、統一政権下ではその役割を1つの城に担わせようとしたようです。
2009.02.13 Friday,08:45
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南予の中世城跡探訪23 御荘氏の配下尾崎氏も在番 ―新城跡―
 今回の史跡は、所在地は高知県ですが、南予も深く関係した場所ということで紹介します。愛南町から国道56号線を通り、県境を越えると宿毛市に入ります。山間を抜け市街地が広がる松田川河口部に出ると、北部の山並みには河口部から宿毛湾までも北から一望するように新城山がそびえます。眺望がよいと見えて、各種電波塔も建てられています。そこには、戦国時代末期、土佐一条氏の滅亡に関わる、そして南予御荘地域の領主も関与した新城がありました。


  新城跡

 天正3(1575)年、すでに土佐を追放され豊後大友氏を頼っていた一条兼定は、再起を図って帰国します。その際、すでに土佐をほぼ手中に収めていた長宗我部氏と渡川(四万十川)を挟んで合戦となりました。しかし一条兼定は敗北し、その勢いに乗じた長宗我部勢はさらに西進して宿毛方面へ追撃をしかけます。この時、南予の御荘氏勢力も一条方に味方したようで、配下の尾崎氏が予土国境に位置するこの新城を守っていたといわれています。そこへも戦火が及んだため尾崎氏は長宗我部勢を迎え撃つこととなったようです。
 その時の恩賞として褒美が近々与えられる旨を伝えた一条氏家臣の古文書などが今に伝わっています。しかし、この後土佐は長宗我部氏が統一支配するところとなったため、こうした一条氏の恩賞給付や地域支配は効力を持たなくなり、一条氏の求心力が急速に消滅に向かったことは言うまでもありません。
2008.09.28 Sunday,10:01
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南予の中世城跡探訪22 伊予最南の領主御荘氏の本拠 ―常盤城跡―
 愛媛県の最南には現在愛南町が所在します。市町村合併により、役場が旧城辺町に置かれました。その役場の南に見える丘、これは城辺の商店街にも面し、登り口に諏訪神社の鳥居が立ちますが、ここは実は中世の城郭、常盤(ときわ)城の跡です。


  常盤城跡

 常盤城は、戦国時代にこの地域を支配した御荘氏の本拠です。合併前の旧町時代、城辺町の西隣は御荘町であり、西面する長く深い入り江を御荘湾と呼びますが、そうした御荘の名は中世にまさに御荘と呼ばれる荘園がこの地域にあったことに由来します。京都の青蓮院門跡領の荘園で観自在寺荘とも称しました。ここで現地支配にあたりながら、次第に領主化していった一族が御荘氏で、戦国時代には地理的に近い中村を本拠とする土佐一条氏の家司の一族が名籍を継いでいるようです。そのこともあってか、当地の勢力は土佐一条氏といろいろとつながりを持っていたようです。
 細長く入り込んだ御荘湾の奥、僧都川河口に出来た平野の中央に位置しますが、おそらく中世には海岸線はもっと内側であったはずで、当時の常盤城は僧都川河口にほど近い独立丘陵だったと推察されます。


  主郭部分

 現在、城跡は諏訪神社の境内になっていて、全体的に後世の改変が加えられてはいますが、残った遺構からもある程度概観は捉えることができます。頂上部の主郭部には広い削平面があり、諏訪神社社殿が建っています。西には大きな横堀を挟んで曲輪2があり、周囲には帯曲輪もあります。さらに西には曲輪3が広がります。


  曲輪2

 愛南町役場を訪れた際、城辺の商店街を通る際、また諏訪神社参詣の際には、かつて当地を領した御荘氏ゆかりの史跡にも、ちょっとばかり目を向けてみてはいかがでしょう。
2008.09.19 Friday,09:03
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南予の中世城跡探訪21 宇和海の水軍法華津氏の城 ―法華津城跡―
 宇和盆地から宇和島に向かう際、JR予讃線・国道56号線ともに法花津(ほけづ)トンネルを抜けます。すると眼下にリアス式の宇和海の眺望が開けますが、そこは法花津湾と呼ばれる湾で、中世には法華津氏という領主の本拠地でした。
 湾の最も奥に位置する法花津・白浦(宇和島市吉田町)には、沿岸部に中世の城跡が多数確認されています。その一つに、法華津本城があります。海岸線を走る国道378号線沿いの小高い丘で、まさに海に面した城であったことが分かります。


  法華津本城跡

 そこから海岸線に沿って500m程度西北に行くと、背後の山から迫り出した尾根上に法華津新城があります。


  法華津新城跡

 また、反対に500m程度東南に行くと、やはり国道に面した一面みかん園の小高い丘、それが法華津今城です。ここもやはり海に面した城であったことがよく分かります。


  法華津今城跡

 法華津氏は、その所在地からも分かるように海に活躍の舞台を見出したようで、宇和海沿岸に影響力を持っていました。そうした法華津氏の機動力は大名権力からも期待されたのでしょう、様々な大名たちと関わりを持った様子がうかがえます。土佐一条氏からは土佐に所領を与えられ、同じく土佐の長宗我部氏が西園寺氏とよしみを結ぶ際にはその取次役となり、一方で豊後大友氏の配下に加わる者もあり、また四国平定後に伊予を領した小早川隆景からは九州出兵にともに出陣するよう命じられ、次いで南予を領した戸田勝隆からは宇和郡内に200石の所領を与えられています。
 宇和海を舞台に活躍した法華津氏が本拠とし、多くの城砦を築いた法花津湾沿岸、今は愛媛でも有数のみかんの産地として、季節には鮮やかな南国の風景を見せています。
2008.09.12 Friday,11:01
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愛南町の戦跡をたずねる
 友の会では、今年度、最初の現地学習会を9月3日(水)に愛南町で実施しました。
今回は、特別展「愛媛と戦争」(会期7月9日〜9月7日)にちなみ、南レク馬瀬山公園にある紫電改展示館と、麦ケ浦にある回天壕跡を48名の参加者で訪れ、当館の平井学芸員による説明をうけました。
紫電改展示館
 ここにある紫電改は昭和20年7月24日に久良湾の沖約200mに不時着し、昭和53年に水深41mの海底で発見され、翌年に引きあげられたものです。
紫電改は、太平洋戦争末期に零戦に代わる新鋭機として、およそ400機が生産されました。全長9.34m、主翼11.99m、高さ3.9m、重量4.86t、時速620km、20mm機関銃4基を備えていました。また、特徴的なのは、離着陸等で用いられるフラップを、空中戦でも使用するために自動空戦フラップ(フラップ角を自動調整するシステム)を装備していることでした。これにより、軽快な運動性をもち、ベテランパイロットと若年パイロットの操縦技術の差がうめられたそうです。
紫電改展示館を見学した後、何人かで宇和海展望タワーに乗りました。天候にも恵まれ、360度宇和海のパノラマを堪能しました。その後、麦ケ浦地区に向け移動しました。
麦ケ浦には、戦時中「回天」が格納されていました。『引渡目録』(防衛研究所図書館蔵)によると、壕は13個、回天は8隻、架台が10基あったようですが、今では2つの壕しか確認できません。「回天」は昭和19年秋から使用された特攻兵器で、潜水艦で敵近くまで輸送して発進、目標近くで突撃します。初めは、搭乗員の脱出装置がありましたが、のちに廃止されました。終戦時までにおよそ400基が作られたそうです。
奥に見えるのが回天壕跡
 参加者からは、「こんなところに戦跡があったとは知らなかった」という声が多く聞かれ、「珍しいところに連れてきてくれてありがとう」という企画した側がとてもうれしくなるようなことを言ってくださる方もいました。
 友の会では、このように史跡を訪れる旅行も年に3回ほど計画しております。興味のある方は、是非ご入会ください。
2008.09.10 Wednesday,09:21
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南予の中世城跡探訪20 四万十川水系国境地域の要衝 ―河後森城跡―
 河後森(かごもり)城、その名前を耳にしたことがあるという方も多いのではないでしょうか。松野町の中心部松丸の町並みの背後に見える小高い丘、それが河後森城跡で、平成9年には国の史跡指定を受けました。


  河後森城跡

 河後森城の周辺地域は、戦国時代には河原淵(かわらぶち)氏という領主が支配していました。なかでもよく知られた河原淵教忠は、伝わるところでは土佐一条氏一門の東小路教忠が養子に入ったといわれ、そのためか一条氏寄りの立場を見せます。予土を結ぶ四万十川水系の国境地域という政治・軍事的要衝にあって、一条氏勢力の前線拠点の役割を期待されたのかもしれません。その後、やはり伝承では、一条氏滅亡の後、配下であった芝氏が台頭して教忠の地位を奪ったといいます。
 四国平定後、南予の支配も中央から送り込まれた大名が執り行うようになりますが、各大名は予土国境に位置する城として重視したようです。なかでも、藤堂高虎は、板島(宇和島)・大津(大洲)・河後森を南予支配の3大拠点としていました。伊達家でも入部当初には当地に重臣桑折氏が配されていたようです。近世初頭に廃城になったようですが、おそらく一国一城令などの影響があったものと推察されます。
 尾根が馬蹄形に丸まった独立丘陵の、最も高い部分に主郭、そこから尾根上に曲輪が連なります。現在発掘調査が継続的に進められており、かつての姿が次第に明らかになろうとしています。主郭部では石垣や大型の瓦・鯱瓦なども出土しており、中世城郭から近世城郭への過渡期の城郭遺跡として貴重な城跡です。発掘成果を基に、一部に建物の復元もされて公園としての整備も進みます。


  照源寺

 河後森城から南へ少し行くと、河原淵氏の菩提寺照源寺があります。境内の開山堂跡地には現在墓碑群があり、後世に河原淵教忠の子孫を名乗る人々により建てられた教忠の墓碑が立ちます。その他には、歴代住職の墓碑をはじめ中世のものと思われる五輪塔も多く並んでいます。


  河原淵教忠墓碑


  照源寺開山堂跡墓碑群

2008.08.30 Saturday,11:03
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