愛媛県歴史文化博物館 学芸員ブログ『研究室から』
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2012.10.26 Friday,
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中国四国名所旧跡図13 丸亀図

 丸亀は丸亀藩京極家5万石の城下町で、その港は金毘羅宮(こんぴらぐう)の参詣(さんけい)客を乗せる渡海船の発着港としてにぎわった。多くの参詣客が港に着いてまずしたのは、船揚り切手(滞留切手)の手配である。それは丸亀の船宿が代行して行ったらしく、その手数料を105文と書いている旅日記を多く見かける。松浦武四郎の天保4(1833)年の「四国遍路道中雑誌」では85文になっているが、これは船宿に代行を頼まなかったためであろうか。武四郎はこの船揚りを持っていないと、土佐甲浦の番所でいろいろと難しいことを言われ、通行が許可されないので、遍路は必ず取りに行くことと記している。西丈もおそらく最初にこの手続きを行った筈である。

中国四国名所旧跡図(丸亀図)

 西丈が描いた丸亀図を見ると、山上に丸亀城が描かれているが、それは添え物のような扱いで、全面に港と町を描き出している。それは当時の人がもつ丸亀のイメージともいえよう。海に大きく突き出た波止(はと)、燈台や燈籠(とうろう)、石垣で築かれた船入(船が出入りする人工港)も描かれており、丸亀港の特徴をよく捉えている。『金毘羅名所図絵』には、明け方から黄昏(たそがれ)まで渡海船の出入りが激しく、船宿は昼夜分かたずにぎわい、浜辺の蔵々には俵物の水産物が積まれていると記しているが、西丈の絵からもそうした丸亀の喧噪(けんそう)が十分に伝わってくる。
  丸亀については他にも同時代の絵師が描いているので、その絵を参考に見ておきたい。
まずは、弘化4(1847)年に刊行された『金毘羅名所図絵』の浦川公佐の挿絵から。

金毘羅名所(丸亀図)

 北の上空から鳥の目で、丸亀の町を描いている。大坂の出版物に多くの挿絵を描いた職業絵師らしく、緻密で手堅い描写がされている。
 もう一枚は、歌川広重の最晩年のシリーズ、「山海見立相撲(さんかいみたてすもう)」の丸亀。

山海見立相撲(丸亀図)

 『金毘羅名所図絵』とは反対に、南の上空から丸亀城と町並みを対等に捉えている。全面に大きく広がる瀬戸内海の描写が印象的。
 このように他の絵師の作品と並べてみると、細部にはこだわらず、対象の本質を大胆に切り取る西丈の絵のもつ特徴が見えてくる。


  なお、中国四国名所旧跡図は、先般刊行された資料目録第17集『絵画資料目録』に紹介されています。




 

2009.06.03 Wednesday,18:57
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駕籠の運搬
 新居浜市の旧家から駕籠を寄贈したいとのお話しがありました。そこで先日、早速受け取りにうかがいました。駕籠は周囲に畳表を張り巡らしたもので、土蔵の梁に吊られていました。

駕籠をおろす

 まずは、足場を組んで綱をゆるめて、駕籠を少しずつおろしていきます。ようやくおろすと、狭い土蔵の中でうまく回転させながら、ぎりぎりで外に出すことができました。

駕籠の運搬

 トラックまでは昔みたいに駕籠をかいていきます。軽い素材でつくられているので、人が乗っていないと二人でも軽々と運べます。トラックに積み込む前に点検したところ、屋根が一部破れていたり、片方の引き戸が失われたりしていますが、全体を掃除すると中に座れるようになりそうです。駕籠は今年秋の展覧会で展示する予定。どのようによみがえるかはお楽しみに。
2009.03.24 Tuesday,08:50
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吉田初三郎の「宇和島自動車株式会社路線大観図」
 先日、新聞社からある資料のことで、取材を受けました。2年ほど前の展覧会で、その資料を当館で借りて展示したためでした。記事は既に掲載されましたが、短いコメントなので資料の価値について伝えることができたのか不安も残りました。そこで、ブログの場を借りて、もう一度その資料のことを思う存分に紹介してみたいと思います。

 取材があった資料とは、宇和島自動車株式会社が所蔵している吉田初三郎の肉筆の鳥瞰図で、画面の右上に「宇和島自動車株式会社路線大観図」とタイトルが記されています。戦後の昭和28(1953)年の製作。大きさは縦116センチ、横343センチで、額装されています。

 同時期に宇和島市が初三郎に依頼した鳥瞰図が、宇和島市街を中心に描いているのに対して、宇和島自動車が依頼した鳥瞰図では、当時のバス路線を反映して南予を中心として、東は松山・高松から東京まで、西は別府、南は室戸・足摺岬までの広域が描かれています。霊峰石鎚山が画面中央の一番高いところにそびえ立っているのは、四国の人間としてはうれしい表現。宇和島自動車のバス路線が示されていて、路線をたどりながら絵の中で周辺の観光地めぐりが楽しめるように工夫されています。

 展覧会後に、館蔵品である地理学者村上節太郎が収集した資料を整理していたところ、この肉筆をもとにして宇和島自動車が印刷した観光パンフレット「観光の南伊豫」が見つかりました。その表紙には和霊神社と雪輪の瀧が描かれ、裏面には「山と海の景観に恵まれた情緒溢(あふ)れる南伊豫の旅」というキャッチコピーが躍っています。また、初三郎自身は「絵に添へてひとふで」において、「南伊豫全地域」にわたる景勝山河の大風光裡、本社バスの交通と、観光の一大文化記録画と記しています。

観光の南伊豫(表紙)
観光の南伊豫(表紙)

 吉田初三郎は、大正から昭和にかけて全国の観光地を宣伝する鳥瞰図を2000点以上制作していますが、宇和島自動車のものは初三郎の本格的な肉筆の鳥瞰図として最晩年の作品に当たります。既に老齢の初三郎はその作成にあたり、戦前の陸軍陸地測量部の精密地図と写真により下図を作成しました。そして、昭和28年に32年ぶりに現地入りして鳥瞰図を完成させました。大胆なデフォルメ、地形を大きくゆがまさせて描く変幻自在な作風は、本作品の特徴としても見出せます。初三郎が描いた愛媛県内の鳥瞰図は15点ほどと考えられますが、そのうち肉筆は、本資料以外に昭和14年の八幡浜市鳥瞰図、宇和島自動車と同じ昭和28年の宇和島市鳥瞰図しか確認されていません。初三郎最後の大作として貴重なものといえます。

観光の南伊豫(部分)
観光の南伊豫(部分)
2008.12.11 Thursday,14:06
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村上節太郎写真28 索道とトラック
 霊峰石鎚に源を発し、西条市に注ぐ加茂川流域は古くから林業が盛んで、加茂川林業の名で知られています。第二次世界大戦以前の加茂川流域は、上浮穴郡・喜多郡・北宇和郡などとともに、愛媛県の木材の供給地として重要な位置を占めていました。木材の輸送には加茂川が使われましたが、喜多郡の肱川とは異なり急流の加茂川は筏流しには向かず、木材を1本ずつ流す管流しがされていました。細くて長い垂木(たるき)や、長大な桁丸太(けたまるた)は川に流すことができず、駄馬の背にのせて西条・氷見・小松まで搬出されていました。

索道による木材の運搬
索道による木材の運搬 西条市西之川 昭和25年

 木材を集める土場への搬出には、駄馬や木馬が使われていました。しかし、馬道は比較的平坦なところにあったので、急峻な山地では人力で運ばなければなりませんでした。大正4(1915)年に木材搬出用の最初の索道が河ケ平(こがなる)に架設されると、大正末頃までに加茂川一帯に普及していきました。この索道の建設は、西ノ川や大森鉱山の銅鉱石が下津池を経て、端出場まで索道で運ばれていたことにヒントを得たといわれています。

木材を運搬するトラック

 戦後になると、加茂川の流送が昭和25年には姿を消し、写真のようにトラック輸送が主流となっていきました。
2008.12.10 Wednesday,09:21
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村上節太郎写真27 炭焼き
 ロビー展「森のめぐみ 木のものがたり」は、12月7日に閉幕予定でしたが、11日まで会期を延長しています。その後、12月20日からは新居浜市の総合科学博物館で展示されます。ぜひご覧ください。なお、今回のロビー展で展示している村上節太郎撮影の写真を紹介するこのシリーズは、しばらく延長します。

炭焼き 大洲市柳沢 昭和9年
炭焼き 大洲市柳沢 昭和9年

 肱川流域では、クヌギを原木とした木炭の生産が行われました。特に村上節太郎が撮影している柳沢地区(大洲市)は製炭業が盛んなところで、大正6(1917)年には製炭者83名、生産量5.8万貫、昭和35(1960)年には製炭戸数205戸、生産量20万貫というデータが残っています。

 肱川流域では、暖房や炊事に使う木炭を小さく裁断した切炭を多く生産しました。大阪から技術を導入して、阪神方面に盛んに出荷されるようになり、「伊予の切炭」として知られるようになりました。この地域の炭窯は小規模であるため、窯内の温度調節が容易にでき、収益性の高い切炭の生産に適していました。

 昭和30年代の後半に入ると化石燃料が普及していき、昭和40年代には炭焼きは急速に衰退していきました。昭和42年に書かれた中山小学校5年生の作文には、かつては木炭問屋、農協、内子の駅にも木炭が山と積まれていたものが、だんだんと電気製品、ガス、レンタン、豆炭などが出まわって、炭焼きをやめる人が増えていることが記されています。その作文から5年後、中学3年になった生徒は、木炭の生産が4分の1の1万箱に減り、炭焼きに使われていたクヌギの原木は、椎茸栽培に転用されていることを書き残しています。

2008.12.09 Tuesday,14:00
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村上節太郎写真26 木材の集散地、長浜
長浜の貯木場
長浜の貯木場 大洲市長浜町長浜 昭和11年

 肱川を筏にして下ってきた木材は長浜に集められました。大正8年には県内最大の伊予木材株式会社が設立、その後も木材会社が次々に進出して、長浜は木材集散地として和歌山の新宮、秋田の能代とともに全国に知られるようになりました。

 長浜に集められた木材は機帆船に積み込んで、瀬戸内海の香川、岡山、広島、山口県などで販売されました。長浜には瀬戸内海から関西一円の木材会社がセリに集まり、そのセリの価格が西日本全体の価格水準になるとまでいわれていました。

運搬船に積み込まれる坑木
運搬船に積み込まれる坑木 大洲市長浜町長浜 昭和11年

 昭和初期には、大手商社の三井物産が伊予木材を傘下におさめ、台湾への移出を始めました。販路はさらに満州や朝鮮などの外地にも広がり、社宅や駅舎などの外地での建築資材として使用されました。また、小さい材木屋は「伊予の小丸太」と呼ばれる建築材の柱や、炭坑の支柱になる坑木(こうぼく)などを取り扱い、北九州や宇部などの炭坑に運びました。

 戦時中の軍需物資としての木材の統制を経て、戦後は復興のための木材需要が高まり、再び木材業は好況に沸きました。しかし、外材の輸入の増加やトラック輸送への変化もあり、長浜はかつての全国的な木材集散地としての地位を次第に失っていきました。

2008.10.22 Wednesday,07:57
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村上節太郎写真25 肱川の筏流し
 肱川やその支流小田川で、木材や竹の筏(いかだ)による流送が盛んになったのは、大正から昭和初期とされています。昭和10年に長浜に集まる木材の80パーセント以上が筏流しによる運搬でした。

 木材は半年ほど山で乾燥させてから、筏を組む作業をする組み場まで運びました。組み場までは、牛馬の背、人や牛での地ずりのほか、川沿いであれば川へ木を落として管流し(一本流し)で運搬されました。

坂石の筏組み
坂石の筏組み 西予市野村町坂石 昭和8年

 組み場は、水深があって流れの緩やかな場所に設けられました。写真は肱川上流部で、舟戸川と黒瀬川の合流地点に当たる坂石河成(こうなる)の組み場を撮影したもの。右の傾斜面を利用して木材を落として川で筏を組みました。また、手前には竹も見えるが、竹も筏に組んで流しました。

 筏の組み立ては、組合員が共同で行いました。筏の先頭には長さ14尺(約4m)か、坑木(こうぼく)なら7尺に切ったものを組みました。筏は幅4尺から7尺に組んだものを1棚(ひとたな)と数え、それを10から16棚連結させて1流(ひとながれ)としました。細い方の末口を前にして組むことで筏の先の方を細くして、後方の棚ほど大きく組んでいきました。棚を組むには桟木として樫の横木を当てて、材木の両端に特別の手斧であけた穴にフジカズラを通してそれぞれを繋ぎ合わせました。後にはフジカズラの代わりに、馬蹄型のイカダバリという金具を打ち込むようになり、作業能率も上がりました。

肱川の筏流し
肱川の筏流し 大洲市白滝甲 昭和20年代

 筏は不慮の事故の際に助け合えるように、5〜10流れがまとまって川を下りました。1流れには2人が乗りましたが、途中の森山や菅田辺りからは1人になることもありました。坂石から長浜まで筏を流して3日、帰りは歩いて1日で合計4日を要しました。大水で水流が速い時は危険ながらも1日で長浜に着くこともありましたが、逆に夏場の水が少ない時期には5〜6日かかることもありました。初日は夜自宅に戻り、2日目は大洲、3日目には長浜の木賃宿に泊まり、帰路は長浜から1日がかりで帰りました。昭和に入り自転車が普及していくと、筏に自転車を積んで宿泊せずに自宅に帰る筏師も増えました。

 危険な筏師の収入は他の仕事よりもよく、最盛期には肱川本流だけでも170人、支流の小田川筋の87人を加えると、概算で257人がこの仕事に就いていたといわれています。しかし、道路整備にともなうトラック輸送の増加などもあり、昭和28年に最後の筏師が陸に上がり、肱川の風物詩である筏流しは姿を消しました。



2008.10.16 Thursday,10:28
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村上節太郎写真24 荷物を運ぶ
オイコを担ぐ人
オイコを担ぐ人 久万高原町笠方 昭和24年

 自動車やトラックが普及していない時代、人体が山で荷物を運ぶ最も優れた運搬具でした。長方形の木枠に負縄と、荷物を固定する張縄を付けたオイコ(背負梯子)を使うと、人力でも重い荷物を運ぶことができました。写真ではオイコの上部に藁製の籠が結びつけられ、足下には藁靴を履いています。

馬で荷物を運ぶ
馬で荷物を運ぶ 久万高原町(旧面河村) 昭和33年

 また、荷物を遠いところまで運んだり、重いものを一度に運ばなければならない時には馬や牛が使われました。写真では車も通れない細い山道を、馬の背に荷物をつけて運んでいます。面河では明治初め頃に、川之内から川上、横河原(いずれも東温市)、そして松山へと抜ける黒森街道が開通すると、馬の背を利用した物資の輸送が盛んになりました。戦後になってもしばらくの間、農家では自分の家の荷物を馬の背で運び、山仕事に使ったりもしていました。

2008.10.13 Monday,08:51
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村上節太郎写真23 三椏
花盛りの三椏
花ざかりの三椏 久万高原町明神 昭和33年

 和紙の原料には楮(こうぞ)と三椏(みつまた)がありますが、楮が集落付近の常畑の畦などで栽培されたのに対して、三椏は集落から遠く離れた日照に恵まれた土地で栽培されました。三椏には独特の臭気があるため獣害から強く、地形急峻な山岳地が最適地だったので、焼畑に導入されていきました。

 昭和に入っての焼畑の主力は現金収入となる三椏で、それまで人が入ったこともないような奥深い山まで切り開かれ、「宝の山」として三椏が栽培されました。村上節太郎が写真を撮影した昭和33年には愛媛県は全国の栽培面積の27パーセントを占めていました。

三椏の皮をはぐ女性
三椏の皮をはぐ女性 久万高原町笠方 昭和33年

 三椏の収穫期は、11月下旬から翌年の4月までの長期にわたりました。1メートル20センチから50センチくらいに伸びた三椏の枝を刈り取り、人間の背丈以上の大きな蒸し桶に入れて蒸すと、皮はぎの作業に移りました。一本一本はぎとられた皮が黒皮、これをさらに水にさらして柔らかくして荒皮をけずりとったものが白皮といいます。この黒皮をけずって白皮にするのは女性の仕事で、三椏の収穫が続く冬の間はほとんどそれにかかりきりになりました。また、子どもたちも小学3年生ぐらいになると、細い枝が割り当てられるなど、皮はぎは一家総出の作業でもありました。

 三椏の皮はぎは水が冷たくつらい作業でしたが、平坦地の米作農家よりも現金収入になりました。しかし、価格が停滞したことや、木材ブームもあって労力が植林にシフトしたこともあって、三椏は昭和38年頃から急速に衰退していきました。
2008.10.10 Friday,08:48
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村上節太郎写真22 トーキビとハッタイ粉
 焼畑では古くは痩せた土地でも育つヒエが作られていましたが、大正から昭和にかけてトーキビ(トウモロコシ)が一番多く作られるようになりました。水田の面積が少ない上浮穴地方では米は貴重品であり、日常的にはトーキビを米に混ぜて食べるトーキビ飯を食べました。トーキビ飯は、米粒大に粗く割ったトーキビの中に、米を1〜2割程度を入れて炊いたもので、冷めると固くなり喉を通りにくかったといいます。

トーキビイナキ
トーキビイナキ 久万高原町明神 昭和10年

 秋になると農家では、トーキビを乾燥するためにイナキをつくり、そこに収穫を誇るかのように架けました。久万高原町や旧小田町(現内子町)では、写真のような光景がよく見られました。

 また、トーキビは粉に挽いてトーキビ団子をこしらえたり、煎ったものを粉に挽いてハッタイ粉にしたりもしました。ハッタイ粉は一種の保存食であり、子どものおやつ代わりにも食べられました。

ハッタイ粉を売る商店
ハッタイ粉を売る商店 久万高原町久万 昭和10年代

 写真は久万の町並みでハッタイ粉を売っていた商店を撮影したもので、久万名産の緑茶と椎茸を押しのけて、ハッタイ粉が堂々と看板の中央に記されています。トウモロコシが上浮穴地方では米のように日用品だったということが伝わってきます。
2008.10.09 Thursday,08:29
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