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2012.10.26 Friday,
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宇和島城追手門跡

  特別展「伊予の城めぐり−近世城郭の誕生−」も会期、残りわずかになりました。今回は特別展に関連して、南予の史跡として宇和島城の追手門跡を紹介します。



 追手門は宇和島城に残る数少ない建物として、昭和9年に当時の国宝に指定されていましたが、昭和20年7月20日の宇和島空襲により焼失します。現在は、石垣に使われていたと思われる石が記念碑として加工されて立っています。それでは宇和島城の追手門はどんな姿だったのでしょうか。明治期の写真(愛媛県立図書館蔵)で見てみます。



 右側に宇和島城の正門に当たる追手門が見えます。門の上に櫓を渡した大型の櫓門で、その規模の大きさから「十万石に過ぎた門」といわれました。左手前には外堀が埋め立てられず遺っていて、堀からそびえ立つ石垣の上に多聞櫓の長櫓が築かれた堅固な構えになっています。



 宇和島城下図屏風(宇和島市立伊達博物館蔵)により上空から追手門を眺めてみます。「大手」の貼り紙の下、土橋を渡ると枡形虎口になっていて、引き付けた敵を追手門の渡櫓から射撃や石落で攻撃できたことを読み取ることができます。追手門は、『宇和島吉田両藩誌』(愛媛教育協会北宇和部会、1917年)に、「寛文六年十一月廿一日、大手御門成就葛石此時出来」とあることから、寛文6(1664)年に伊達家により再建された可能性がいわれてきました。しかし、近年の宇和島市教育委員会の発掘調査により、発見された根石の加工方法が藤堂高虎の城に共通して見られること、櫓の外観が柱を見せる古式なものであることから、慶長期までさかのぼる可能性が指摘されています。
 宇和島藩の「万治元年以来御普請記録」には、「御多門御兵具方/一門矢倉/二重之分四間梁ニ桁行拾貳間」とあり、1間を6尺5寸(約2m)で換算すると、梁間約8m、桁行24mの渡櫓がのっかった巨大な門であったことが分かります。高虎時代の建築とすると、「十万石に過ぎた門」といわれる規模も理解できそうです。



 追手門があった位置の現況を撮影してみました。写真奥右手の細く高いビルから左手の広告看板が付いたビル辺りまでが追手門の範囲になります。この位置に巨大な櫓門を想像してみると、江戸時代の宇和島城下が少し感じられそうです。

2010.12.04 Saturday,09:56
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2012.10.26 Friday,09:56
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