愛媛県歴史文化博物館 学芸員ブログ『研究室から』
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2012.10.26 Friday,
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村上節太郎写真31 念斎堀

 10月17日(日)に実施された特別展関連講座「松山城を歩く−砂土手探訪−」の際に、村上節太郎が撮影した念斎堀の写真について、柚山俊夫先生から撮影地点の紹介がありました。これらは現在、特別展「伊予の城めぐり−近世城郭の誕生−」で写真パネルになって展示されていますが、このブログでは、村上の写真に講座の際に撮影した現況写真を添えながら、念斎堀について概説します。

 加藤嘉明は、堀や土塁により松山城の外郭に防御ラインを築く惣構の工事を進めたが、元和元(1615)年におきた大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡したことで中断したと伝えられる。東雲神社東側の堀はその一部で、町人の府中屋念斎が工事に当たったことから念斎堀、掘った土を積み上げてできた土塁は砂土手と呼ばれている。
 村上は早い段階で念斎堀と砂土手に興味をもち、4枚の写真を撮影している。そのうちの2枚については、当館発行の図録『村上節太郎がとらえた昭和愛媛』(2004年)で紹介したが、写真に年代の注記がなかったため、図録には推定年代として昭和20年代の撮影と記した。しかし、その後写真の整理が進み、新しく発見された念斎堀の写真に戦災前と注記されていることから、4枚の写真は一連のもので、いずれも戦災前、すなわち昭和10年代に撮影されたものであることが分かった。戦後しばらくして、村上は『伊予史談』に、古地図から松山城下町の変容を読み解く論文を書き、念斎堀と砂土手について解説を加えている。







 1枚目の写真は堀の形状が食い違いになっていること、右端の家屋の後景にわずかに城山が見えていることから、現在の東雲公園に当たる堀を北東側から撮影したものと考えられる。




 2枚目の写真は1枚目とほぼ同じ撮影地点から、奥の木立に囲まれた六角堂(常楽寺)の建物を写している。つまり、現在の東雲公園に当たる堀を北側から撮影していることになる。六角堂が堀に比べるとかなり高い位置に感じられるが、そのことは六角堂が砂土手上にあることを物語っている。





 参考に、六角堂から東雲公園を見下ろした写真も掲載するが、その高低差がはっきりと分かる。








 3枚目は東雲公園から勝山通りを越えて、北持田付近の堀を北側から撮影している。 堀は正面で突き当たり、左に折れ曲がっているように見えるが、堀・砂土手ともに南方向へ曲がっている地点を撮影したものと思われる。写真奥の住宅部分に当たると思われるポイントを現況写真として撮影してみたが、村上の写真はもっと手前の引いた位置から写しているようである。





 4枚目も堀の形状と城山との距離から、3枚目と同じく北持田町にあった堀を撮影したものと考えられる。写真左側に、3枚目の正面に写っていた住宅が見える。折れ曲がりを見せている堀と土塁はこの地点から南下を始め、松山東高校の西側を通り、松山商業高校東側付近まで続く。周囲は既に宅地化が進み、現況写真を写すことはできなかった。

 松山城の天守はこれまでにも多くの写真が遺されているが、念斎堀のような失われゆく松山城の痕跡を自覚して記録していることに、いつもながら地理学者としての村上の鋭いまなざしが感じられる。戦災は松山の街を焼き、都市化がさらにその変貌に拍車をかけた。念斎堀も昭和30年に埋め立てられ東雲公園になるなど、戦後間もなくして姿を消していった。念斎堀を松山城の重要な遺構と気づき、村上が戦前という早い段階で撮影してくれたおかげで、その姿は辛うじて記録として遺った。

2010.10.21 Thursday,13:36
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2012.10.26 Friday,13:36
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