愛媛県歴史文化博物館 学芸員ブログ『研究室から』
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2012.10.26 Friday,
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へんろ道を歩く〜柏坂越え〜

へんろ道「柏坂」を歩きました。


柏坂は宇和海に面した柏集落から大師峰(標高502m)を横断し、宇和島市津島町大門までの峠越えの山道です。旧遍路道として、また、戦後まもない頃までは地域の生活道路として利用されました。


スタート地点の柏集落。柏橋のたもとに中務茂兵衛が明治34年に遍路184度目に建てた道標があります(写真(1))。



写真(1)


刻字に「舟のりば」とあるので、柏坂を通らず舟を利用した遍路もいたのかもしれません。ちなみに茂兵衛は江戸末期から大正期にかけて歩き遍路で280度という驚異的な記録をあげた「へんろの達人」です。


柏川を上流に向かって歩くと、「坂上二十一丁 よこ八丁 下三十六丁」と刻まれた自然石の道標(写真(2))があります。




写真(2)


柏坂は上り約2289m、平ら約872m、下り約3924m。最初に柏集落(海抜10m)から峠付近の展望台(標高480m)までの区間を急ピッチで上り、峠付近からは尾根道を進み、ゆるやかに長く下っていく柏坂のコースの特色がよくわかります。


いよいよ柏坂越えの入口(写真(3))に到着。ここから急な山道をどんどん上っていきます。





写真(3)


途中、遍路墓と思われる小さなお墓や炭焼き小屋がありました。また、コース上には昭和12(1937)年に柏に滞在した野口雨情が柏坂の美しい風光や厳しい坂道を詠んだ句碑がいろいろあり、疲れを癒してくれます。息切れしながらようやく柳水大師(標高350m、写真(4))に到着。





写真(4)


弘法大師が柳の杖をつくと水が湧き出た伝説があります。傍らには小さなお堂の中に弘法大師像が安置され、その台座によると、明治25年に中務茂兵衛が発願主となって奉納されたことがわかります。茂兵衛さんは道標以外にもいろんなことで遍路に貢献されています。一息ついた後、さらに上っていくと清水大師(写真(5))に到着。





写真(5)


小さな祠の脇に大師水がありました。ここは結核の病に利くと伝えられています。さらに上っていくとやっとゆるやかな尾根道になりました。道沿いに石垣や、石畳みが築かれている。「ゴメン木戸」(写真(6))いう場所の案内板によると、この付近は昭和20年代まで大草原で、明治期には放牧が行われ、放牧した津島の牛が南宇和郡内に入るのを防ぐために頂上に向けて石畳が築かれたとありました。




写真(6)


山の遍路道で牛の放牧・・・意外でした。


お遍路さんに接待した場所であった接待松(ねぜり松)に到着。現在は松の株と石仏がのこっているが、昔、足の不自由で箱車に乗っていた遍路がここで足の病が治ったという霊験談が伝わっています。その後、ようやく「つわな奥展望台」(標高480m)に到着。展望台というと案外、樹木が生い茂り見晴らしが効かない場所が多いなか、ここの展望台からの景色は素晴らしい。眼下に由良半島が広がり、天気が良ければはるか遠くに九州地方も臨めます(写真(7))。まさに「絶景かな絶景かな」の境地でした。



写真(7)


展望台からゆるやかな下り道となり、途中、イノシシのヌタ場、女兵さん思案石、思案坂、狸の尾曲がり、鼻欠けオウマの墓、馬の背駄馬など、地形的におもしろい所や、地元のトッポ話(民話)などの伝承に因んだスポットがたくさんあります。私が特に気に入ったのは、馬の背中のように両サイドが急な坂となっている馬の背駄馬(写真(8))です。なかなかうまく言い得ていますね。




写真(8)


さらに峠道を下っていくと民家に到着。近くには茶堂大師があります。そこから小祝川に沿って下ります。津島方面からの峠の登り口には下部が埋もれているが武田徳右衛門風の道標(写真(9))がありました。




写真(9)


小祝集落から宇和島市津島町大門に到着。さらに、芳原川沿いを進み、岩松まで歩きました。


今回歩いた柏坂越えの旧へんろ道(地図参照・赤印)は、地元の人たちを中心にとても整備されており、想像していたよりも歩きやすかったです。また、次から次へといろんなスポットがあり変化に冨み、歩きながら地元の歴史や民俗を学ぶことができます。また、内海支所でいただいた内海中学校の生徒さんが作成した遍路道マップ「柏坂越えのみち」はとても分かり易くて大変役立ちました。




※地図は愛媛県生涯学習センター発行『伊予の遍路道』平成14年を参考に加工。


 


 


 


 

2011.06.09 Thursday,14:55
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岩屋寺 ―せりわり禅定―


 

 岩屋寺は、四国山地の山深く、久万高原町七鳥(ななとり)に所在する四国霊場第45番札所として知られる古刹(こさつ)で、日々多くのお遍路さんが訪れます。あたりは侵食された凝灰岩(ぎょうかいがん)が特異な景観を作り出していることから国の名勝にも指定され、また秋には美しい紅葉の名所としても知られています。岩屋寺を訪れた際、ぜひ立ち寄りたいのが「せりわり禅定」と呼ばれる行場。ここは、時宗の開祖一遍上人も訪れ、「一遍聖絵」にも登場する歴史的には非常に著名な場所。でも、「岩屋寺には行ったがそこは行ってない」という人が結構多いのではないでしょうか。では、実体験をほんの少しだけ報告します。

 本堂・大師堂から少し谷間を登ったところが入口ですが、まずは納経所で鍵を受け取ってから登らないと二度手間になるのでご注意。また、神聖な修行の場であることにも配慮しましょう。

 「せりわり」の名のごとく岩山が真っ二つに裂け、ひと一人がやっと通れるような裂け目を、綱を伝いながらしばらく登ります。これが第一段階。次に第二段階、再び綱か鎖を伝いながらさらに上の岩場へ登ります。足場はほとんどありません。





最終段階として梯子(はしご)を登ると、狭い山頂に白山社の祠(ほこら)が祀られています。足場はないに等しく、気を付けないとお参りも命がけになります。



 祠の建物自体は近年の建立ですが、まさに「一遍聖絵」に描かれた、一遍が長い梯子を登って参詣した社がここにあたります。「一遍聖絵」では、この他に2峰、全3峰の独立峰と各峰上の祠が描かれていますが、近年の研究では、実際は同じ峰を登る3段階の節目ごとに祀られた祠だったと考えられています。江戸時代中期の絵図を見ると、確かに段階ごとに高祖社・別山社・白山社と3つの祠を見ることができます。 



 「岩屋寺勝景大略図」(当館蔵)

 絵図には、第一段階の「せりわり禅定」に次いで「鎖禅定」とあり、第二段階の鎖が相当します。峰全体が修行場とみなされていたのでしょう。絵図の別の部分を見ると、本堂の横の峰にも梯子で行く仙人堂、さらに上方には洞中弥陀・洞中塔婆が示されています。現在も本堂脇には梯子で上がる仙人堂跡がありますが、さらに上方にも穴が二つ、これが洞中弥陀・洞中塔婆の場所でしょう。どうやって上がったのでしょうか。



 険しい行場を持つ岩屋寺ですが、せりわりに見たような白山信仰や、熊野信仰との関わりも指摘されており、一遍の時代から山岳修験の行場の性格を持っていたのではないかと考えられるようにもなっています。

 45番岩屋寺、今は札所として参拝者が絶えませんが、実は一遍上人や山岳修験ともゆかりの深いお寺なんですね。

参考文献:山内譲「一遍聖絵と伊予国岩屋寺」(上横手雅敬編『中世の寺社と信仰』吉川弘文館・2001年)

2010.12.09 Thursday,10:05
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東大寺戒壇堂 ―凝然(ぎょうねん)ゆかりの地―
 東大寺は、大仏で知られた奈良の代表的寺院です。ちょうど平城遷都1300年ということで、観光客も普段以上に訪れています。でも、一口に東大寺といっても境内は非常に広く、大仏殿や南大門だけが東大寺ではありません。実は、鎌倉時代の伊予の人物と非常に関わりの深い場所があります。




大仏殿から少し西へ行った台地上に戒壇堂(かいだんどう)がありますが、古くはその付近一帯に戒壇院と呼ばれる伽藍(がらん)が広がっていました。天平の時代、唐招提寺の創建で知られる鑑真が受戒制度の整備のため日本へ招かれた翌年の天平勝宝6(754)年、正式な受戒の場として建立されました。

 それから約500年後、鎌倉時代後期にこの戒壇院の院主となったのが、凝然という伊予出身の学僧です。様々な宗派の教学に通じ、仏教の教科書ともいうべき『八宗綱要』を著すなど博学で知られ、国師号を授かっています。東予に拠点を置いた新居氏の一族で、その系譜を記した「与州新居系図」は重要文化財に指定されています。

 戒壇院は幾度もの火災で往時の姿をとどめませんが、復興された戒壇堂・千手院が現存します。戒壇堂を訪れると、天平塑像の傑作とも言われる国宝の四天王像が迎えてくれます。観光客で賑わう大仏殿周辺とはまた違い、落ち着いた雰囲気を味わうことができます。この場所で凝然をはじめ歴史上の名僧たち、そして数えきれないほどの僧侶たちが受戒したことを思い返すと、荘厳な気持ちに包まれます。



 奈良東大寺を訪れた際には、伊予とも関わりのある戒壇堂へも足を運んでみてはいかがでしょう。

2010.12.05 Sunday,10:02
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へんろ道を歩く〜龍光寺から明石寺へ 3終

(3)歯長峠から明石寺を経て歴史文化博物館へ

 歯長峠の頂にある「送迎庵見送大師」を発ち、ここからは峠の下り道です。仏木寺周辺からはるか遠くに見えていた四国電力送電鉄塔が今は眼前にあります。空にそびえています。付近には倒れた2基の遍路道標がありました。ひたすら山道を下ります。途中、車が入れるほどの林道と交わります。歩き遍路道をさらに下っていくと、雨水による路面浸食による流失で、とても足場の悪い山道が続きます。山中の立ち枯れた松の巨木のもとに寛政7(1795)年に皆田村(現西予市宇和町)の有志が建てた立派な遍路道標がありました。



倒れた遍路道標




江戸時代(寛政7年)の遍路道標


 ずっと急坂を下っていきます。やがて工事中の四国横断自動車道のトンネルが間近に見えてきました。麓まで下りたようです。石橋で小川を渡ると県道に合流し、バス停がある歯長峠口に到着。そこには地蔵堂がありました。堂内には弘法大師像、不動明王像、地蔵菩薩像などの石仏が祀られており、隣には文化・文政年間の遍路墓がありました。


 休憩所で少し休んだ後、宇和川を渡り、43番明石寺に向かいます。ここからは基本的に舗装道を歩くことになります。これまで、軟らかい土の道を歩くことに慣れてきた両足が、疲れもあってか、時おり足裏が少し痛みを感じてきました。小雨も降って来ました。下川(ひとうがわ)の集落は、歯長峠から下って来たお遍路さんが休息をとる場所とされ、お接待が行われ、遍路宿もあって往時は賑やかだったそうです。そのなごりを示すように、「道引大師」と呼ばれるお堂があります。小さな堂内には中央に道引大師像、左に弘法大師像、右に不動明王像が祀られています。驚いたのは、一人用の布団が常備され、ここで寝泊まりができるようになっていました。これは現代のお接待(善根宿)といえます。堂前には、中務茂兵衛が明治39年に209度目供養として建てた道標がありました。



歯長峠口の地蔵堂と遍路墓




中務茂兵衛の遍路道標と道引大師


 県道宇和野村線を歩き、旧道に入り、皆田小学校の前を進みます。新しく祀られた道中安全見守大師を過ぎ、歴史文化博物館が近くに見えてきます。歩き遍路さん用の矢印に従って進むと、明石寺奥之院に着きます。結界がはられた敷地には祠が安置されていました。付近に明治期の小さな道標があります。明石寺の参道の鳥居付近には、中務茂兵衛が大正3年に256度目供養として建てた道標がありました。この道標の上には、小石が積み上げられていました。歯長峠道で確認した石積みとの関係が気になりました。やがて明石寺へ到着。境内には、次の札所の菅生山(44番大宝寺)まで21里(約84辧砲筏された道標がありました。最後は、宇和文化の里へ通じる遍路道を歩きます。途中、宇和新四国の道に入り、遊歩道を通って愛媛県歴史文化博物館へ無事帰館することができました。


 今回のコースの経過時間は以下のとおり。龍光寺発10時半、仏木寺着11時45分着、歯長峠の送迎庵見送大師着13時50分、歯長峠口着14時40分、道引大師着15時、明石寺着16時15分、歴史文化博物館帰着17時。距離にして約13.6km。徒歩所要時間6時間半、万歩計で23,210歩でした(思ったより歩数が少なかった…)。


 遍路道を歩き終えての感想は、モータリゼーションが普及する以前の四国遍路の一端に触れたような心地がしました。自ら歩く視線で遍路道をたどると、そこには江戸時代から現在に至るまで、時代とともに変容されながらも四国遍路の盛行を支えた一要因である、札所と札所を結ぶ遍路道の役割の大きさを認識しました。道中で出合った数多くの遍路道標、それを発願、浄財、寄進、施工した人々のたくさんの名前。弘法大師信仰の地域拠点とされる大師堂、行き倒れて亡くなったお遍路さんを葬った遍路墓などを、目の当たりにすると、お遍路を支えてきた沿道の地域の村々や人々のこころ、接待という善根を積む行為などを通して四国遍路が育まれてきたことを感じました。余談ですが、現代のアスファルト道と違って、自然の中で土の道を歩くことの心地よさを知ったことは大きな収穫でした。


 最後に、今回の遍路道の踏破で一度も迷子にならなかったのは、「へんろみち保存協力会」による遍路道の整備のおかげであり、長時間一緒に同行してくれた同僚のJBOY氏に感謝いたします。

2010.06.11 Friday,11:27
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へんろ道を歩く〜龍光寺から明石寺へ 2

 (2)仏木寺から歯長峠へ


 牛馬の守り本尊として知られる四国八十八ケ所霊場第42番札所の仏木寺。その山門近くには、中務茂兵衛が明治21(1888)年に、100度目の遍路記念に建てた道標があります。この道標は別の場所から移転されたもので手印が削られています。ただし、現在は道標に看板等をくくりつけているため文字が読みづらい。長年、門前で美味しい手作りアイスクリーン作りをされているおじさんに、これまで印象にのこったお遍路についての思い出を聞かせていただきました。実際に「リヤカーで自分の棺桶を運びながら四国遍路をしているお遍路さん」や、「馬に乗って札所を廻っているお遍路さん」もいたそうです。歯長峠道への順路も丁寧に教えていただきました。



 仏木寺を出て、これから越える歯長峠の山なみを見ながら、県道宇和三間線を北進します。へんろみち保存協力会作成による赤い矢印にそって左折、西谷吉田線に入ります。道端には「お遍路道につき徐行ご協力お願いします」と書かれた大きな真新しい看板がありました。近年の歩き遍路ブームを反映しているようにも思いました。しばし道なりに進むと歯長峠の山道入り口に到着。明治36(1903)年に兵庫磯の町(現神戸市)の人が建てた道標がたっています。




仏木寺前から歯長峠を臨む




歯長峠の登り口(三間町側)


 ここからどんどん山道を登っていきます。途中、石畳の山道となります。木立の間からは遠くに宇和海が見えます。やがて県道に合流。ここからはしばし車道を歩くと、右手に標識「四国の道休憩所・歯長峠遍路道 きついのは最初だけ 峠まで20分」があります。階段をのぼると四国の道休憩所があります。ここで昼食をとりました。適度に腹ごしらえして、いよいよ歯長峠を目指して出発。「これより200メートル急登坂」の標識があり、その先はまさしく鎖が張られた急坂の連続。掛け声を入れながら頑張って登りきりました。


 その後は緩やかな尾根道が続きます。付近は岩石が露出し、小石がたくさん散乱しています。道中には、お遍路さん?などの通行人が積み上げたものなのか、謎の石積み塔が数箇所ありました。緑の樹木に覆われたうす暗い山中の道をずっと歩いて行くと、やがて急に視界が開け、広場に出ます。ここが歯長峠の頂です。コンクリート壁のお堂「送迎庵見送大師」がありました。堂内には「文化五(1808年)戊辰 三月廿一日 四国八十八ケ所納経塚 立間村」と刻まれた弘法大師石仏像など石仏群が安置されています。





鎖がはられた歯長峠の急登坂




歯長峠の頂にある送迎庵見送大師





 

2010.06.10 Thursday,12:27
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へんろ道を歩く〜龍光寺から明石寺へ 1

 愛媛の遍路道を実際に歩いてみました。


 今回のコースは、四国八十八ケ所霊場第41番札所龍光寺(宇和島市三間町)をスタートし、42番仏木寺(同町)を経て、歯長峠(標高約500m)を越えて、43番明石寺(西予市宇和町)を経由して歴史文化博物館に帰館するまでのルートです。徒歩による完全踏破を目標にしました。健脚向きです。


 このルートは、龍光寺から仏木寺までの山越えの道、仏木寺からの歯長峠道など、徒歩によるお遍路さんが通る旧遍路道がのこっており、ゆっくりと歩きながら、沿道にある大師堂、遍路道標、遍路墓などを調査しました。道中は「へんろみち保存協力会」が整備した現代の歩きお遍路さん用の道標(赤い文字やマークによる看板、シール等の標識)が要所要所に設置され、基本的に途中で迷子になることはありませんでした。


 (1)龍光寺から仏木寺へ


 出発地点の龍光寺。江戸時代までは41番札所は稲荷社とされていましたが明治の神仏分離によって龍光寺となりました。地元の人たちには「おいなりさん」と呼ばれています。神仏習合の面影をのこす龍光寺の鳥居をくぐると、周防国(現山口県)出身の中務茂兵衛(なかつかさもへい)が大正5(1916)年に263度目の遍路供養として建てた遍路道標が出迎えてくれました。施主は大阪の人の名前が刻まれています。手の指で方向を示す矢印は「(手印)四十一番い奈り (手印)四十番奥の院」と刻まれ、現在でも道標の機能を果たしています。また、参道の石段には、越智郡出身の徳右衛門が建てた文化5(1808)年の道標があります。こちらは、地元の宮野下に住む夫婦が寄進したことが刻まれています。





参道入り口の中務茂兵衛の遍路道標




参道石段前の徳右衛門の遍路道標



 歩き遍路道は、龍光寺の墓所を過ぎて 山越えの道となります。入り口付近に、文化5年の淡州(淡路島)のお遍路さんとおぼしき遍路墓がありました。山道をしばらく進むと県道宇和三間線に合流。ここからは県道を北上します。県道のガードレールの外側には、明治11(1878)年に、地元の人たちが建てた道標があります。肉厚な浮き彫りの手印とともに「へんろみち 佛木寺へ廿丁 施主邑中」「へんろみち宇和成家村 いなり山へ五丁」と刻まれています。現在、県道に平行して四国横断自動車道が建設中で、遍路道周辺の風景も時代とともに大きく変わろうとしています。




龍光寺から仏木寺への山越えの道





肉厚な浮き彫りの手印



 

2010.06.09 Wednesday,09:46
| imaken | 資料調査日記 | - | - |
松山物産博覧会と松山城古写真

 明治11年4月10日〜5月29日まで、松山城で物産博覧会が開かれました。松山城は、明治6年に廃城とされましたが、愛媛県の請願により、翌年に公園とすることを認められました。博覧会の様子を当時の新聞記事から紹介しましょう。
 富国強兵、殖産興業をスロ−ガンとする明治政府は、明治10年に東京上野で内国博覧会を開催しました。その後も地方での博覧会開催に力を入れました。松山で開催された物産博覧会は、出品点数約4,200点。4月25日には、西南戦争で政府軍として熊本城を死守した陸軍少将谷干城も立ち寄っています。その後も追加品が加わりました。その一つが名古屋城の金鯱(きんしゃち)です。大分県での博覧会後、愛媛県での展示となったため、開幕には間に合わなかったのです。5月4日に三津浜より金鯱が松山公園に引き揚げられました。松山博覧会社と書かれた幟を先頭に、大きな車に金鯱をのせて牛三頭に引かせました。賑やかな行列だったようです。人出も4月25日980人、26日960人、28日1,310人、5月5日1,753人、6日1,567人、21日2,398人、22日3,138人と、後半の集客が目立ちます。
 こうした博覧会の光の部分とは対照的に、陰の部分もありました。それは「蝦夷人種の生き人形」です。生身のアイヌ人たちを見せ物にしたのです。まさに人間展示です。こうした背景には、植民地主義や人種差別といった様々な問題意識が存在しています。万国博覧会でも1889年のパリ万博から人間展示が始まっています。近年、博覧会をテ−マにした研究が多いのも、博覧会に内包された歴史的課題の存在にあります。

 最後に、明治10年、つまり松山公園物産博覧会の前年に撮影された松山城本丸の写真を紹介しましょう。本資料には裏書きに「明治十年松山ノ写真師桂城思風君撮影セリ 小林守門 印」とあります。イギリスのケンブリッジ大学に、明治16年に松山城本丸を撮影した写真が存在しますが、それをさらに遡る最古級の松山城本丸写真と言えます。開園当初の公園の様子、博覧会前年の公園の様子を知ることができ、近代における松山城の変遷を知る上で、大変貴重な資料です。なお、本資料は現在常設展示しています。
「伊予勝山城」(当館蔵)
「伊予勝山城」(当館蔵)


2009.04.11 Saturday,09:44
| hirai | 資料調査日記 | - | - |
能島城跡に渡ってきました!

 先日、休日を利用して、知り合いの歴史愛好家たちと能島城跡へ上陸を果たしました。

 
  能島城跡

 能島城は、言わずと知れた瀬戸内水軍の雄、能島村上氏の本拠で、今治市沖の大島の東岸宮窪の沖に位置する小島です。しまなみ海道(西瀬戸自動車道)の伯方・大島大橋からも遠望できる、国史跡の指定を受けた城跡です。
 能島とその南の鯛崎島から構成され、階段状に郭を配した島の周囲を断崖が囲み、島全体が要塞化されています。また、船の係留地となる岩礁には柱穴や犬走りなどの遺構も残っています。

 能島は無人島のため、普段は渡ることができませんが、春のお花見の季節には宮窪港から渡船が出ます。実は、能島は桜の名所としても知られ、毎年大勢の花見客で賑わいます。
 折角の機会、休日の行楽がてら上陸を果たし、花見兼現状確認を行ったというわけです。

 
  主郭部分 

 ちょうど桜も満開の見頃を迎え、天気もよく絶好の花見日和で、大勢の人出がありました。この日は渡船の発着場で水軍太鼓の実演もあり、賑わいをさらに盛り上げていました。
 また、能島の周囲を船でクルージングすることもでき、芸予諸島の潮流の激しさを間近に感じる貴重な体験もできました。
 
 
  潮の流れを目にできる

 能島城跡・能島村上氏に関する資料は、大島本土の宮窪にある村上水軍博物館に展示されており、博物館前からは潮流体験の船も出ています。村上水軍の世界を堪能した一日でした。
 

2009.04.08 Wednesday,08:45
| haru | 資料調査日記 | - | - |
日本の文様―文様になった生きもの達―(30)兎(うさぎ)
(30)兎(うさぎ) −月で餅つき− 

 長らくご紹介してきました、「日本の文様―文様になった生きもの達―」も今回が最終回となります。最後に少し珍しい型紙をご紹介します。

染型紙 兎に菊 個人蔵(砥部町)・当館保管

染型紙 兎に菊 個人蔵(砥部町)・当館保管

 今までの型紙と比べて形が違うことにお気づきでしょうか。
 この型紙は、布を染める型紙ではなく、やきものに絵付けするための型紙です。この型紙を、お椀やお皿などやきものの上にあてて、顔料を刷毛などで塗って色づけます。やきものは立体的なものが多いため、湾曲している型紙もあります。同じ柄のやきものを大量生産するために、型紙などを用いて絵付けしたものを「印判手」(いんばんて)と呼びます。白地に青い色が美しいやきものです。
 月に兎が住んでいるという伝説は中国が発祥の地です。不老不死の霊薬を臼でついている兎が、日本に伝わって餅をつく姿となりました。
 菊などの秋の草花と取り合わせた文様は、月からの連想によるものです。

2008.09.09 Tuesday,14:00
| diamond | 資料調査日記 | - | - |
日本の文様―文様になった生きもの達―(29)牡丹(ぼたん)
(29)牡丹 −百花の王−

染型紙 唐獅子牡丹 大西金七染物店蔵(四国中央市川之江町)

染型紙 唐獅子牡丹 大西金七染物店蔵(四国中央市川之江町)

 牡丹は中国を原産とし、その花弁が豪華なことから「百花の王」と称されます。日本では、花の栽培が進んだ江戸時代から人気の文様となり、愛されました。「百獣の王」である獅子と組み合わされ、富貴の象徴とされることも多く見られます。



 この型紙では、豪奢な花びらを誇る牡丹に対して、円形にデフォルメされた獅子の姿は勇壮というよりも、愛らしさを感じさせます。



 唐獅子牡丹の背景は、「紗綾」といいます。卍文様を崩したこの文様は、地文様としてよく使われています。
2008.09.07 Sunday,09:03
| diamond | 資料調査日記 | - | - |