愛媛県歴史文化博物館 学芸員ブログ『研究室から』
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2012.10.26 Friday,
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村上節太郎写真33 松山市駅を出る坊っちゃん列車 昭和28年



松山市駅を出発した坊っちゃん列車が、大きく右にカーブを曲がりながら中の川を渡っていく。踏切手前には白色のX型の踏切標識が見えるが、これは進駐軍用の踏切標識で、「RAILROAD CROSSING」の英文が記されていた。写真からも小さな機関車が貨物車やたくさんの客車を牽引していたことがよくわかるが、松山市駅を出てから立花駅までは石手川の土手に向かって坂になっており、老朽化した坊っちゃん列車にとっては難所となった。戦後の粗悪な石炭だったこともあり、パワー不足のため満員の重みに耐えかねて登れなくなり、乗客が途中で降ろされることもあったという。坊っちゃん列車は写真の翌年には運行を終了し、ディーゼル機関車に取って代わられた。村上節太郎はその前年に坊っちゃん列車の最後の輝きを記録するように何枚も写真撮影している。





写真は平成16年に撮影した現況写真。車両だけではなく、暗渠となった中の川を含めて周辺の景観が大きく変化していることがわかる。


松山市駅を出る坊っちゃん列車の写真は、愛媛県立図書館で開催中の共催展「坊っちゃん列車が走った街〜明治・大正・昭和〜」(〜8月26日)に現在展示中です。

2012.08.12 Sunday,14:26
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村上節太郎写真32 別子鉱山鉄道 昭和10年




別子鉱山鉄道は、その名の通り、別子銅山の鉱石の輸送を目的につくられた鉄道で、明治26(1893)年に開業した。開業当初は一般の貨物や旅客を乗せない別子銅山専用の鉄道であったが、昭和に入ると鉄道沿線の人口も増え、鉄道利用を希望する声も高まってきたため、昭和4年に広く一般の貨物や旅客にも開放され、端出場−惣開が従来の専用鉄道から地方鉄道に切り替えられた。


村上節太郎の写真は、地方鉄道になってから6年後の昭和10(1935)年に山根駅付近で撮影されている。写真を見ると乗客が乗る客車と鉱石が載せられた貨車が混合して走っている様子がよく分かる。地方鉄道としての開業当初、運賃は端出場−惣開が20銭。惣開4時10分を始発として、終着21時45分まで上下19本もの貨客混合列車が運行、昭和5年のデータで旅客10万4000人、貨物68万トンを運んだという。


その後戦争をはさみ、戦後復興期を迎えるとバスなどの新しい交通機関が普及していき、通勤通学はバスや自転車へと次第に取って代わられた。そのため乗客が激減した別子鉱山鉄道は昭和30年に再び専用鉄道に戻り運行を続けたが、ついに昭和52年に84年の歴史に幕を下ろした。


※別子鉱山鉄道の写真は、特別展「GO GO TRAIN !」に現在展示中です。


参考文献
『愛媛県史』地誌供陛賤重貮堯烹隠坑牽固
藤本雅之「愛媛県における鉄道の変遷」(『愛媛県総合科学博物館研究報告』第2号、1997年)

2012.08.09 Thursday,14:23
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中国四国名所旧跡図17 塩飽七島を見る図




絵の右上に「讃州次崎町ツカより四和久(塩飽)七嶋見図」のタイトルが記されている。手前に瀬戸内海を背景に海岸線を通っている道を描いている。切り立った崖沿いの道のようで、いくつかの岩と岩に絡まって生える松。当時の名所だったのであろうか。しかし、「讃州次崎町ツカ」についていろいろ調べてみたが、該当する場所を見つけ出すことができなかった。もしご存知の方がいらっしゃったら、ご教示いただきたい。


瀬戸内海に目を転じると、遠景に見先のハナ(三崎鼻)、獅子島(志々島)、アハ島(粟島)、高見(島)、サナイ島(佐柳島)、ハシリ島(走島)、近景にヒロ島(広島)、登■島(与島カ)、丑島(牛島)、大坂島(本島)、シヤミ島が見える。この場所から見る三崎半島から瀬戸内海の島々が連なる景色。この絶景を描くことが西丈のねらいであったのだろう。


位置関係から考えると、坂出市の海岸か五色台あたりから描いているようにも見えるが、いかがであろうか。


当館では、企画展「四国へんろの旅−絵図・案内記と道標−」が2月21日〜4月8日の会期で開催されます。多彩な資料で四国遍路の魅力を紹介します。ぜひご覧下さい。

2012.02.10 Friday,10:53
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中国四国名所旧跡図16 琴引八幡、有明浜




琴引八幡と有明浜を、東側の上空から俯瞰(ふかん)したような視点で西丈は描いている。あるいは象頭山から高性能の望遠レンズでのぞいて、琴引八幡と有明浜だけを切り取ったイメージであろうか。絵の中央下、木に囲まれた石垣の上に社が描かれているのが琴引八幡。海際の小高い山の上に立地していることがわかる。




『金毘羅名所図絵』にも大きな松に囲まれた石垣の上に、本社、高良社、大師堂などの建物が見える。明治時代の神仏分離以前までは、琴引八幡は四国遍路の第68番の札所でもあった。





琴引八幡の上部にはきれいな砂浜が広がっているが、この砂浜が「日本の渚百選」にも選ばれている有明浜。香川県観音寺市室本町、八幡町、有明町にかけての約2kmにも及ぶ瀬戸内海に面した砂浜で、『金毘羅名所図絵』にも「琴弾山の麓の濱をいふ、當国第一の絶景なり」と記されている。


嘉永3(1850)年にこの地を訪れた浄瑠璃太夫の竹本梶太夫(染太夫)も、「当山絶頂の御本社が琴引の八幡宮、則ち六十八番の霊場にして、風景のきれいなる事ほかにはあるまじき景地、裏へ廻り下向道、象ケ鼻といふ名所、下を見れば有明の浜とて絵にかく如くの風景なり」とその景観を絶賛している。西丈自身も琴引八幡と有明浜を織り込んで、「有明の月に琴引ぐ社哉」の句を絵の右端に書き込んでいる。


 画面左下には「三ガノ橋」の文字が記され、木製の橋が描かれている。これは染川に架かる三連続の橋のことで、橋詰めは観音寺の町並みで、商家工家が軒を連ねる繁華街であった。西丈もその部分だけ家が建て込んでいるように描いている。


当館では、企画展「四国へんろの旅−絵図・案内記と道標−」が2月21日〜4月8日の会期で開催されます。多彩な資料で四国遍路の魅力を紹介します。ぜひご覧下さい。

2012.02.04 Saturday,10:49
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ハイトリックについて

博物館では、愛媛の歴史や民俗、考古に関するお問い合わせも多くいただきます。 


 そのうち、5月15日のブログでご紹介しました「ハイトリック」について、続けて2件のお問い合わせをいただきました。


 暑くなり、ハエも増える季節柄、興味をおもちの方も多いのかもしれませんので、もう少し詳しくご紹介いたします。




まずは、ハイトリックの中央にある木のふたを開けると




このような構造になっています。

指差している部分が、木製の四角いローラーで、ここに砂糖水や油などを塗ります。

この部分がゆっくりと回り、甘いエサにひかれて止まったハエは内部に入り込みます。




ハエがこの穴に入ってしまうと




金網のカゴから出られなくなります。

カゴの入り口は広く奥のほうが小さくなっているのがおわかりでしょうか。




このように、ハエの入ったカゴ部分はとりはずすことができます。




本体の左側にある穴に部品を差込み、ゼンマイをまわしたようですが、本資料には部品はありません。


 ちなみにこのハイトリック、当時の価格はどれほどだったのでしょうか?


 大正4年の「自働蠅捕器」(形がハイトリックと似ています)の広告によれば、2円80銭とあります。


『値段史年表』によると、当時の物の値段として以下のようなものがあげられています

 ランドセル               2円(大正13年)

 週刊誌「週刊朝日」     12銭(大正13年)

 タバコ「ゴールデンバット」 7銭(大正14年)

 国家公務員の初任給    70円(大正7年)

 巡査の初任給        18円(大正7年)


 単純に今の価格と比較することはできませんが、それでも高価であったことは間違いありません。


 当時はハイテクな機械だった「ハイトリック」は、民俗展示室2で見ることができます。ご来館お待ちしております。



参考資料

朝日新聞社、1988、『値段史年表』

林丈二、1998、『型録・ちょっと昔の生活雑貨』

岐阜新聞社、2002、『ちょっと昔の・・・』

2011.07.01 Friday,14:46
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村上節太郎写真31 念斎堀

 10月17日(日)に実施された特別展関連講座「松山城を歩く−砂土手探訪−」の際に、村上節太郎が撮影した念斎堀の写真について、柚山俊夫先生から撮影地点の紹介がありました。これらは現在、特別展「伊予の城めぐり−近世城郭の誕生−」で写真パネルになって展示されていますが、このブログでは、村上の写真に講座の際に撮影した現況写真を添えながら、念斎堀について概説します。

 加藤嘉明は、堀や土塁により松山城の外郭に防御ラインを築く惣構の工事を進めたが、元和元(1615)年におきた大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡したことで中断したと伝えられる。東雲神社東側の堀はその一部で、町人の府中屋念斎が工事に当たったことから念斎堀、掘った土を積み上げてできた土塁は砂土手と呼ばれている。
 村上は早い段階で念斎堀と砂土手に興味をもち、4枚の写真を撮影している。そのうちの2枚については、当館発行の図録『村上節太郎がとらえた昭和愛媛』(2004年)で紹介したが、写真に年代の注記がなかったため、図録には推定年代として昭和20年代の撮影と記した。しかし、その後写真の整理が進み、新しく発見された念斎堀の写真に戦災前と注記されていることから、4枚の写真は一連のもので、いずれも戦災前、すなわち昭和10年代に撮影されたものであることが分かった。戦後しばらくして、村上は『伊予史談』に、古地図から松山城下町の変容を読み解く論文を書き、念斎堀と砂土手について解説を加えている。







 1枚目の写真は堀の形状が食い違いになっていること、右端の家屋の後景にわずかに城山が見えていることから、現在の東雲公園に当たる堀を北東側から撮影したものと考えられる。




 2枚目の写真は1枚目とほぼ同じ撮影地点から、奥の木立に囲まれた六角堂(常楽寺)の建物を写している。つまり、現在の東雲公園に当たる堀を北側から撮影していることになる。六角堂が堀に比べるとかなり高い位置に感じられるが、そのことは六角堂が砂土手上にあることを物語っている。





 参考に、六角堂から東雲公園を見下ろした写真も掲載するが、その高低差がはっきりと分かる。








 3枚目は東雲公園から勝山通りを越えて、北持田付近の堀を北側から撮影している。 堀は正面で突き当たり、左に折れ曲がっているように見えるが、堀・砂土手ともに南方向へ曲がっている地点を撮影したものと思われる。写真奥の住宅部分に当たると思われるポイントを現況写真として撮影してみたが、村上の写真はもっと手前の引いた位置から写しているようである。





 4枚目も堀の形状と城山との距離から、3枚目と同じく北持田町にあった堀を撮影したものと考えられる。写真左側に、3枚目の正面に写っていた住宅が見える。折れ曲がりを見せている堀と土塁はこの地点から南下を始め、松山東高校の西側を通り、松山商業高校東側付近まで続く。周囲は既に宅地化が進み、現況写真を写すことはできなかった。

 松山城の天守はこれまでにも多くの写真が遺されているが、念斎堀のような失われゆく松山城の痕跡を自覚して記録していることに、いつもながら地理学者としての村上の鋭いまなざしが感じられる。戦災は松山の街を焼き、都市化がさらにその変貌に拍車をかけた。念斎堀も昭和30年に埋め立てられ東雲公園になるなど、戦後間もなくして姿を消していった。念斎堀を松山城の重要な遺構と気づき、村上が戦前という早い段階で撮影してくれたおかげで、その姿は辛うじて記録として遺った。

2010.10.21 Thursday,13:36
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村上節太郎写真30 今治の常磐町商店街




常盤町商店街 今治市常磐町 昭和40年


 今治港から市役所を東西に結ぶ今治の中心商店街で、売り出しなのか商店街全体が紅白の幕で飾られている。通称「今治銀座」とも呼ばれ、衣料品の店が多く立ち並ぶ。買い物客の足となる輪タクが客待ちをしている。しかし、近年は渡海船による島嶼部からの買い物客が減り、人通りも写真当時よりは減っている。


2010.03.26 Friday,14:10
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村上節太郎写真29 今治城の牡蠣の養殖
 

今治城の牡蠣の養殖 今治市 昭和11年

 何の変哲もない城跡の石垣の写真。名所旧跡として今治城を撮影した写真に見える。しかし、村上節太郎が書き残したメモには、「城の堀を利用したカキの養殖」と記されている。確かによく見ると、堀の中に養殖のための竹ヒビが林立している様子がうかがえる。
 地元で聞くと、今治城の堀は明治時代に入り、旧今治藩士がつくった組合により管理され、牡蠣の養殖場として貸し出されていたことがわかった。今治城の堀は海水を導入しており、潮の干満による水位を調整する水門もついていたため、牡蠣の養殖に適していたのだろう。村上の地理学者としてのセンスがうかがえる一枚である。
 今治城は軟弱な地盤を補うため、今治城の本丸、二之丸の石垣の下には犬走りがまわり、松が植えられていた。昭和11年の写真には多くの松が見えるが、現在はこれらの松は失われている。

2010.03.21 Sunday,14:07
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中国四国名所旧跡図15 弥谷寺
中国四国名所旧跡図(弥谷寺)


 標高382メートルの弥谷山の中腹にあった71番弥谷寺を描いている。古川古松軒の「四国道之記」には、弥谷寺の岩にことごとく仏像が彫刻されているが、それは弘法大師が一夜で千体の仏像をおつくりになったと伝えられていると記されている。西丈の絵にも、岩に彫られた数々の石仏の姿を見出すことができる。

 西丈と同様に江戸時代後期の弥谷寺を描いたものとしては、阿波の遍路による「四国八十八ケ所名所図絵」の挿絵がある。その挿絵では、上空から鳥瞰して弥谷寺の建物配置なども忠実に捉えているのに対して、西丈は写実性を後退させつつも、岩肌を強調して当時の旅日記に「見る所皆々仏像にあらずといふことはなし」と記した特徴的空間を力強く描き出している。

 また、西丈の絵には、「狼も念仏も同し法の声ちりのうきよといとふいやたに」の言葉が添えられている。西丈は遍路の途次に狼の声を聞いたのかもしれないが、江戸時代後期、四国の山には狼が広く棲息していたようである。文化6(1809)年、京都の商人が四国遍路した際の旅日記にも、人々が寝静まった夜、狼や猿の声が山に響き渡るのに恐怖を感じると記されている。

  弥谷寺についても、最後に『金毘羅名所図絵』の挿絵も添えておく。

金毘羅名所(弥谷寺) 
2009.06.06 Saturday,09:02
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中国四国名所旧跡図14 出釈迦寺
  丸亀に着いた西丈が、実際にどのように四国遍路をまわったのか分からないが、絵の順番でいくと、丸亀から少し後戻った73番の出釈迦寺が丸亀の次に綴られている。ちなみに、丸亀に着船した遍路は、78番の道場寺から札を打ち始めるのが一般的である。


中国四国名所旧跡図(出釈迦寺)


 西丈の絵では、右下に出釈迦寺の境内が描かれている。境内は石垣の上にあり、中央の大きな建物が本堂(あるいは鎮守社とも)で、その脇の小さい建物が大師堂と思われる。境内にはさらに、手形のようなものが付いた石と石碑のようなものが見える。手形の石には、「露のせとしらは命捨て見よ尺迦の手形か反古にやなるまい」の文字が添えられている。境内にはかつて手形石のようなものがあったのだろうか。
 ところで、出釈迦寺には、次のような弘法大師伝説が残っている。大師7歳の時に、寺の裏山に登り、「衆生済度(迷いの苦しみから衆生を救って、悟りの世界に渡し導くこと)」、と言って、山の崖から谷底に飛び降りた。その時に紫雲が湧き天女が舞い降りて大師を抱き留めた。弘法大師は不思議な仏の力に喜び、霊験を後の世に伝えようと、自ら釈迦如来を刻み、その山の麓に堂宇を建立し、出釈迦寺とした。また、身を投げた断崖は、「捨身ケ嶽(しゃしんがたけ)」といわれるようになった。西丈はこの伝説を意識して、出釈迦寺と一緒に画面左に「捨身ケ嶽」が描き込んでいる。その上で伝説にちなみ、次のような言葉を書き付けている。
  難行も苦行も釈迦のおしへなりすつる命をとめるのも釈迦
  残る暑や尺迦も抛出釈迦寺
 最後に『金毘羅名所図絵』の挿絵も添えておく。西丈に比べると、出釈迦寺の境内の様子や眺望が写実的に描かれていることが分かる。


金毘羅名所図絵(出釈迦寺)



2009.06.05 Friday,09:14
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